捜索 都賀厚之助
平田国学に関しては、篤胤の評価を始め近年は史実に沿った評価がなされるようになってきており、研究者の一人として私も嬉しく思っている。その中で今最も気になっているのが、都賀孝之助強という平田没後門人である。都賀は単なる門人ではない。1864(元治元)年11月下旬、水戸西上勢が和田峠の激戦ののち、伊那路を南下する時に敢て一行に参じ、翌年2月に敦賀で処刑されているのである。彼が信州滞留中世話をした松尾多勢子の長男誠哉は、彼の死を悼み、 11月と生前入門の形をとってはいるが、平田織瀬の「入覚帳」では1865年2月24日付で、誠哉紹介者3名と並んで「金百疋 都賀孝之助」と記載されている。彼の思いを知る誠哉が生前入門の形式で彼を歴史に留めたのである。生国は摂津国とあり、備中国阪谷素の興譲館に学んだ漢詩人でもある。彼だけが敦賀処刑者の中で全くの経歴不明者の侭放置されている。なんとか紙碑を建てたい惜まれる若者の一人である。
東京大学名誉教授
宮地正人