平田篤胤の晩学のすすめ

 現代は、生涯学習の時代です。成人してからも、リタイアしてからも楽しく学び続けることが求められているようです。全国各地で、大小さまざまな講座が開催されていることは、ご存知のことかと思われます。
  さて、平田塾の門人帳である『門人姓名録』を見てみますと、門人の年齢は、子供から老人までかなり幅があることに気がつきます。親子で門人となったという例も多くありました。江戸時代は漢学が主流の時代ですが、漢学だけでは物足りなさを感じる一群の人々がいて、彼らは国学や蘭学を学んでいました。  
 平田門人の学びの集団が全国各地に次第に増加していきます。その傾向は、明治初頭まで続くことになります。
  例えば、備前国には、業会大枝(邑久郡上寺邑の八幡宮神主)という篤胤生前の重要な門人がいて、地元の平田国学の小規模なグループのリーダーをしていました。業合は篤胤が文政6年(1823)に上京した際、9月2日に入門した人物で、「疑いなく物になる男」(『上京日記』)とその学識は篤胤から高く評価されています。
 この備前平田国学のグループの一人に、杉山水枝という人物がいます。文政8年(1825)2月に業合の紹介で入門した備前国上道郡浅越村の金山八幡宮神主です。業会のような著名な門人ではありませんが、今回はこの人物に注目してみたいと思います。
 杉山水枝は、自身を「晩学殊に不才也」と嘆いていました。篤胤は杉山水枝を元気づけようとして、文政8年(1825)8月10日付で書簡(『平田篤胤研究』書簡篇884~885頁)を送っているのです。  
 この書簡の中で篤胤は、「俗の謂ゆる才子」は「甚ダ好ましからぬもの」であると述べています。篤胤自身も、国学を学ぶようになったのは、25歳か26歳頃、江戸で本居宣長の名前を知ってからであるとしています。その後は、世の学者と同じように、宣長の著書をただただ読んでいたにすぎません。「真の学問」といえるものは、文化8年(1825)12月頃、すなわち36歳ころからであると述懐しています。さらに、多病や貧苦に耐えながら、今日まで「唯々勤学」をしてきたと付け加えているのです。
  そうした自身の経歴を踏まえて、32歳という杉山に対して、学問の大成には、晩学であることや非才であることは全く関係ないと、大いに励ましているのです。
 こうした篤胤による晩学のすすめは、超高齢化社会を迎えつつある現代日本の人々に、大いに参考になるように思われます。

千葉県文書館嘱託
中川和明