平田国学と「顕幽無敵道」印


 現在、印章を使用する機会が減少する傾向にありますが、これは時代の流れであるように思われます。しかし、昔の人は印文に特別な思いを込めている場合があります。歴史を考えるうえでは、印章を等閑視することはできません。
 さて、平田篤胤は複数の印章を所持していました。例えば、『気吹舎日記』の天保5年(1834)12月13日の記事を見てみると、「父君御印三出来、顕幽無敵道、イフキノヤノアルシ、大壑平篤胤印と云の也」(『国立歴史民俗博物館研究報告』128集89頁)とあります。この中にある「父君」は篤胤のことですので、この日に篤胤の3種類の印章が出来たことが分かります。印章を3種類も作ったのは、何か事情があるのでしょう。
 ここでは、「顕幽無敵道」印に注目したいと思います。「顕幽無敵道」というのは、簡単にいえば、この世でもあの世でも無敵の道であるということです。天下無敵という言葉がありますが、それよりさらに上を行くものといえるでしょう。「顕幽無敵道」は、平田国学の学問の性格を短い言葉でよく表しているように思われますので、篤胤の所持する印章の印文として、たいへんふさわしいものです。
 「顕幽無敵道」の精神は、全国の平田門人たちに影響を与えました。例えば、津軽の平田門人グループの中心人物に、鶴屋有節(鶴舎有節、つるや・ありよ)という人がいます。安政4年(1857)2月に入門した篤胤没後の門人の一人です。彼は、『顕幽楽論』という書物を著しました(『青森県史 資料編近世 学芸編』538頁~556頁)。『顕幽楽論』の別名は、『顕幽無敵論』というもので、慶応3年(1867)4月13日に書かれて草稿のまま残されました。鶴屋は明治4年4月に津軽で死去していますので、『顕幽楽論』は晩年の著作ということになります。
 『顕幽楽論』は、和歌一首から始まります。すなわち、「現し世も幽り世も楽しかる我皇神の道そ正道」というものです。顕世と幽世の何れも楽しい道が正道というのです。さらに続けて、「或人問ひけらく、世にある人の常に愁ひとするものハ、貧と病と老と死との四つなり。又死てのち幽世の覚つかなきとなり。此を安むする心術ありやいかに。答ていはく、此を安むするのミにあらす、此を楽しむ故よしあり。」(同書508頁)と述べています。
 晩年の鶴屋は、この著書で人々の直面する大問題の解決策を示そうとしていたのです。
このように、篤胤の「顕幽無敵道」印の精神は、平田門人たちに受け継がれ発展していくことになりました。

千葉県文書館職員
中川和明