「筑波蜂起一件顛末記」刊行によせて

 幕末維新期の平田国学の中心地域は東濃・木曽谷・南信の「夜明け前」の世界であった。中津川本陣の市岡殷政(しげまさ・島崎藤村の歴史小説『夜明け前』の浅見景蔵のモデル)はペリー来航の嘉永六(一八五三)年から明治八(一八七五)年頃迄、気吹舎(いぶきのや)や中津川の平田国学同志、国事を憂うる全国の国事周旋家達と不断に情報交換をおこないつつ、十冊に及ぶ大部の「風説留」(ふうせつどめ)を纏めていった。その内の九冊は時系列的な編纂物となっているが、「筑波颪」(つくばおろし)と表題書きされている一冊のみは、元治元(一八六四)年三月末の、幕府の横浜鎖港政策を支援する尊王攘夷有志家の筑波山結集に始まり、慶応元(一八六五)年二月、越前敦賀での武田耕雲斎以下三百五十二名の大量斬首という悲惨な結末迄の諸情報を編纂した「顛末記」となっている。原題の「筑波颪」では内容が不明なので、史料集のタイトルを「筑波蜂起一件顛末記」とした。
 市岡殷政は事件当初から情報を収集しつづけてはいたものの、水戸浪士西上勢が中山道(なかせんどう)を上州から信州に向い、殷政を含む「夜明け前」世界の平田国学者達が一致協力、大尽力して一行の進路を変更させ、馬籠(まごめ)宿泊・中津川昼休みにするという想像不可能な事態を経験し、しかもなんとかして生かしておきたかった水戸「義徒」達が敦賀(つるが)で処刑されてしまう結果となったので、殷政としては関係諸史料を改めて編纂しなおし、「顛末記」に仕立てたのだと私は思っている。
 殷政や飯田の北原稲雄らが、飯田城下町に火を放ち、焼土の中で籠城しようとする飯田藩の計画を阻止、更に西上勢の進路を危険な名古屋に向う中馬(ちゅうま)街道から、より安全な中山道ルートに変更させたことは、だらしのないサムライ階級に比しての南信・東濃の平田国学者の声望をいやがうえにもたかめ、事件直後から、「夜明け前」世界の人々の気吹舎入門者を激増させる原動力となったのである。
 しかしながら市岡殷政の字体は極めて難読、また諸方からもたらされる諸情報は転写に転写を重ねて誤字・脱行が多く、一人では全文解読は到底不可能、牛久古文書の会全員の智恵と協力により、足かけ四年、ようやく全文解読にたどりつくことが出来た。収められている史料は従来全く紹介されてこなかったものも多く、始めて活字化された史料もおびただしいものがある。また大内貞雄会長によって詳細な注記が施こされ、更に人名索引が完備されたことによって、本史料集の利用価値が二倍、三倍となった。
 もっとも本史料集は私家出版のため、平田神社にお頼みして、希望者には製作実費二千円でお分けしてもらうことになった。神社参拝の折、手に取って御覧いただければ幸いである。

  令和元年八月三〇日
      牛久古文書の会代表 宮地正人

『筑波蜂起一件顛末記』表紙
『筑波蜂起一件顛末記』表紙
『筑波蜂起一件顛末記』原書表紙、概略、市岡殷政略歴、目次
『筑波蜂起一件顛末記』原書表紙、概略、市岡殷政略歴、目次
『筑波蜂起一件顛末記』本文
『筑波蜂起一件顛末記』原書解読・書下し
『筑波蜂起一件顛末記』註釈
『筑波蜂起一件顛末記』註釈
宮地正人
 

東京大学名誉教授 
宮地正人