平田篤胤の伊勢参宮
「お伊勢行きたや、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」(伊勢音頭)と唄われたように、江戸時代は伊勢参宮が隆盛した時代です。文政6年(1823)、篤胤は関西旅行を行いました。人生最大の旅行で様々な用事がありましたが、その中に伊勢参宮も含まれています。
この関西旅行については、「文政6年平田篤胤上京日記」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第128集)・「文政6年平田篤胤上京日記(続)」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第146集)といった新史料によって詳細が分かるようになりました。適宜、『大壑君御一代略記』・『毀誉相半書』も参照しながら、以下説明していきたいと思います。
まず、7月22日篤胤は江戸を出立しました。25日三嶋大社参詣。同月27日駿府に逗留しています。8月3日熱田参詣、同日桑名に到着しました。5日大津着。6日京都に到着しました。江戸から京都までの日数は、だいたい普通です。
京都における最大の用事は、禁裏御所(仁孝天皇)・仙洞御所(光格上皇)への著書献上ですが、2カ月以上滞在しており京都の名所も精力的に訪問しました。
例えば、8月7日「下賀茂社」、同月23日「南禅寺・知恩院」、同月25日「北野社(北野天満宮)」、9月3日「三十三軒(間)堂、両本願寺を見て東寺観智院へ行く」、同月15日「梅宮(大社)・松尾(大社)」・「愛宕山」、同月16日「御室・金閣寺・北野(天満宮)」などです。
さらに、20日には「祇園の神楽」を見て、崇徳院宮(東山区祇園町南側の崇徳天皇御廟)参詣、東寺の二王(仁王)見学、「六原密寺(六波羅密寺)・きよもり(平清盛)・竹野姫の廟」を見学しています。22日「東寺の空海堂」、「菅原降誕の天神」を参拝しました。10月14日再び北野天満宮参詣。このように初めての京都で、何もかも新鮮であったと考えられます。
なお、時期は戻りますが、8月23日に篤胤は京都の「洗湯」(銭湯)に寄っています。すなわち、“去ル十四日に湯に入れるまゝなる故に、からだ甚くさくてたまらず、拠なく町の洗湯へ行く、女十七八人、男二人ゐたり、予と又兵と男四人なり、よみに行たるここちす、尤も上りに水あみて清め帰る”とあります。11日ぶりに入浴して大変よい気分であった様子。「よみ(黄泉)に行たるここち(心地)す」という珍しい比喩が見られます。上京日記には「洗湯」(銭湯)の場所は明記されていません。8月28日には「亡妻の夢をみる」とあります。亡き妻に一度京都を見せたかったという思いがあったのかもしれません。
多くの用事を終えて、10月19日出京し、伏見に着きました。10月20日大坂着。住吉大社に参詣して大津に泊まりました。21日和歌山着。22日と23日本居大平を訪問しています。27日春日大社・大和社(大和神社)参詣、石上社(石上神宮)前を通り、三輪社(大神神社)を参詣しています。
11月1日に松坂に至ります。松坂入口の「三軒屋」で月代してから本居春庭を訪問しました。そのうえで、同日伊勢神宮へ参拝に行っています。「外宮へまず一寸参詣」・「一寸内宮へ参り」とあるように、この日は正式な参拝ではないようです。
翌2日に内宮参詣。「末社巡り」も行いました。二見浦も見物。ここは江戸時代に様々な絵に描かれてかなり有名な場所ですので、篤胤も楽しみにしていたのではないでしょうか。朝熊岳には行っていないようです。この日は「山田妙見町ふじや(藤屋)」に宿泊しました。この旅籠は、江戸時代のベストセラーである『東海道中膝栗毛』にも登場しています。
3日外宮参詣。日暮れに松坂に到着しますが、旅籠は「大和屋」(『毀誉相半書』)です。4日山室山(本居宣長奥墓)を参拝、改めて松坂の鈴屋を訪問して本居春庭と会見しました。
こうして、篤胤は東海道を下り江戸に向けて帰路に着きました。江戸から伊勢参宮をする場合、行きは東海道で帰りは中山道を使うといったこともよく行われていましたが、篤胤は往復ともに東海道を通りました。12日駿府に寄っています。駿河国は、早くから平田派の拠点になった重要な土地です。19日江戸の自宅に帰還。関西旅行は篤胤の人生の大きな節目となりました。これ以降、篤胤の学問活動は後期に入ることになります。『大壑君御一代略記』の翌文政7年(1824)の記事に「此春ハ殊ニ著述ヲ急ギテ、数部草稿ヲ成シ玉ヘリ」とあります。旅の思い出が篤胤の活力になったものと思われます。
千葉県文書館職員
中川和明