平田国学と伊良湖岬 ―糟谷磯丸・宮負定雄・島崎藤村―

「日本民俗学の父 柳田國男逗留の地」碑 (中川先生撮影)

 伊良湖岬は、愛知県の渥美半島先端に位置しています。現在、この風光明媚な岬には筆と短冊を持った歌人の銅像があります。江戸後期、伊良湖に生まれた糟谷磯丸(かすや・いそまる、1764〜1848)です。磯丸は、平田篤胤(1776~1843)とほぼ同時代に生きた歌人です。
 寛政6年(1794)磯丸は、病身の母親の平癒を願って産土神の伊良湖神社に参拝しました。祈願の甲斐あって病から快復したといいます。この頃から磯丸は歌を詠むようになりました。本居宣長の門人井本常蔭(いもと・つねかげ、1776~1813)にも学んでいます。
井本は、隣村(現・田原市亀山町)に住んでいました。大垣新田藩主戸田氏宥(とだ・うじひろ)の家臣で郡奉行です。歌を詠む珍しい漁師である糟谷磯丸に、たいへん関心があったようです。
 磯丸は京都、伊勢、尾張、江戸などを訪れ、旅先でも歌を詠みました。無病息災などの思いを込めた歌を詠むのが得意でしたが、こうした招福除災のための歌は「まじない歌」とも呼ばれます。磯丸は生涯多くの歌を残しました。伊良湖神社境内には、磯丸霊神を祀る祠「磯丸霊神祠」(いそまるれいじんほこら)があります。
 一方、下総の平田門人として有名な宮負定雄は、『奇談雑史』(ちくま学芸文庫、平成22年9月)を著しました。その巻4の中に「参州磯丸が歌の事」があり、糟谷磯丸に関する話を掲載しています。細かなことをいえば、この「参州磯丸が歌の事」で父親のための平癒祈願として書かれている話は、実際には母親のためのものです。宮負は磯丸に強い関心があったように思われます。『奇談雑史』によって、平田国学と糟谷磯丸の間に接点が出来ました。
 時は流れて明治31年夏、当時東京帝国大学2年の学生であった柳田国男(23歳)が、病気療養のため伊良湖岬を訪れました。現在、滞在地には「日本民俗学の父 柳田国男逗留の地」と横書きで刻まれた石碑があります(掲載写真参照)。この時、柳田は海岸に漂着した椰子の実を拾います。ここでの体験は、晩年の『海上の道』(筑摩書房、昭和36年7月刊)の構想につながっていきました。
 帰還した後、柳田は親友である島崎藤村に、椰子の実の話をします。藤村は強い刺激を受け、柳田の話をもとに「椰子の実」の詩を書きました。すなわち、「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」で始まる有名な詩です。最初、明治33年6月号の『新小説』に発表され、後に藤村の詩集『落梅集』(春陽堂、明治34年8月刊)に収められました。
 昭和11年7月、NHK大阪放送局の国民歌謡の担当者が、作曲家である大中寅二に「椰子の実」の詩に曲をつけるように依頼します。こうして歌曲「椰子の実」は誕生し、ラジオで全国に放送されました。伊良湖岬周辺には、「椰子の実記念碑・歌碑」(田原市日出町)があります。
 このように平田国学と三河の伊良湖岬は、意外なところでつながっています。上記の伊良湖神社には三河国田原藩の渡辺崋山も参拝していますが、崋山の高弟に椿椿山(つばき・ちんざん、1801~1854年)という人物がいます。崋山が遺書を書き送るような特別な弟子でした。この椿椿山こそ、平田篤胤の肖像画を描いた絵師の一人です。
(参考文献)『神様になった伊良湖の歌人 糟谷磯丸-まじない歌の世界-』(田原市博物館、平成26年10月)

千葉県文書館職員
中川和明