平田篤胤肖像
篤胤肖像はいろいろ伝来していますが、国立歴史民俗博物館の平田篤胤関係資料の中に自画像が見つかっています。これが篤胤の実際の顔に近いものと考えられます。
『気吹舎日記』の天保9年(1838)11月20日の条をみてみますと、「小田伴助の弟莆川来る、椿仲太号椿山と云画かき同道ニて来る、父君御肖像之為也」(『国立歴史民俗博物館研究報告』128集133頁)とあります。篤胤肖像を描くために椿椿山(つばき・ちんざん 1801-54)が塾に来ていたのですが、椿は三河国田原藩家老渡辺崋山の門人で、崋山が投獄された際に救出のために尽力した人物です。この絵師は「渡辺崋山が創出した肖像画様式を引き継いだ唯一の弟子」(田原市博物館)ともいわれています。平田家と椿椿山との関係については、今後よく調査が必要でしょう。
一方、世間で、もっともよく知られた篤胤肖像は、秋田藩の絵師狩野秀元の手になるものです。『古画備考』(1326頁)では、「狩野秀元」は「名貞信、号蒼雪菴、秀水男 下谷三味線堀」と説明されています。下谷三味線堀というのは、現在の台東区小島付近のあたりで、近くには、大江戸線新御徒町駅があります。
篤胤は天保14年(1843)9月に秋田で死去しましたが、それから4年後の弘化4年(1847)5月5日の『気吹舎日記』のところに、「菅原洞斎・狩野秀元来」(『国立歴史民俗博物館研究報告』128集213頁)とあります。秀元が江戸の塾に来訪していたことがわかります。篤胤肖像の製作に関する用事であったと考えてよいでしょう。
平田塾は、狩野の描いた篤胤肖像を各地の門人に有料で頒布していました。鈴屋が本居宣長肖像を門人などに頒布していたのと同様です。今日、本居宣長肖像の研究はたいへん進んでいますが、篤胤肖像の本格的な研究はこれからといった状態です。
さて、平田銕胤書簡によれば、「此画師ハ拙方懇意ニ而狩野秀元と申人ニ而御座候、画ハ上手ニハ無之候得共懇意故御注文次第いかやうニも為直可申候」(安政2年<1855>2月28日付高玉安兄宛銕胤書簡【30】、『日本文化研究所紀要』第89輯)とあります。銕胤によれば、狩野秀元は、上手な絵師ではないが、懇意にしているので、絵の修正についても意見できたようです。柔軟な人柄であったものと思われます。
さらに、津軽の平田門人に送られた平田銕胤書簡にも、狩野秀元による篤胤肖像に関する記述が散見されます。『青森県史 資料編近世 学芸関係』(以下、県史資料編と略記)に翻刻されている史料です。該当箇所を抜粋すれば、
- 安政3年(1856)9月12日付鶴舎宛銕胤書簡(県史資料編№45)「乍去右画像ハ秋田人の書キ候物ニ而、よく似たる由人々申候得共、先人の心ニハ叶ひ不申候事有之、夫故当方ニ而ハ画像ハ用ひ不申候」
- 万延元年(1860)6月3日付鶴舎有節ら宛銕胤書簡(県史資料編№58)「先人之肖像出来候間、一幅差上申候、但し水干ハ本より色の定マリ無之、何色ニ而も宜く候得共、先人ハ大抵緑色を好ミ被申候、御写しニ相成候節ハ御好次第ニ而宜敷御座候」
- 万延元年(1860)11月23日付鶴舎有節宛銕胤書簡(県史資料編№61)「先人肖像之儀、厚く御悦被下満足いたし候、但し右肖像十分と申ニハ無之、画工も心ニ任せ不申、先大抵ニ御座候間、深く御頓着ハ被下間敷候、扨右ニ付而ハ、秋田ニ而出来之ハ拙宅家内共其外当地之者ニハ不得心ニ候へ共、彼地之人々よしと申居候事故、其侭ニ差置申候、其内ニも羽織など着用ハ常之事ニハ候へども、改マリ候節ハ嫌ひニ而、講書之節ハ必肩衣相用ひ、鈴屋大人之御霊祭其外発会等之節ニハ水干装束相用ひ、略し候迚ものしめ上下ハ是非着用いたし候、勿論発会と申候而も、必す大人等の御肖像奉祀之事ニ候也、是ハ御序故申上候、扨右肖像ニ付御一統より金三百疋也御贈り被下、御入念候御義辱く拝受いたし候」
となります。1.の中の「秋田人」というのは、先に述べた高玉文書からすれば、狩野秀元のこととみていいでしょう。この肖像について人々が、篤胤によく似ているといっていたことがわかります。
また、2.には篤胤肖像が一幅出来上がったので差し上げるとあります。この書簡によれば、水干(男子の装束)が緑色であるが、これは故篤胤の好みの色であったとのことです。なお、この装束は平田神社に伝来しています。3.には、篤胤肖像の頒布価格が「金三百疋」であったことも書かれています。
平田篤胤関係資料の中に、(肖像授与者氏名控)が含まれていることも、付記しておきたいと思います( H-1615-3-9-2-65)。原表題は「御肖像授与」で、平田塾側が篤胤肖像を与えた人のリストです。臼井豊後、宮崎周防守、鶴屋乙吉、角田由三郎、舟橋宗信他の名前(門人など)が列記されたものです。
篤胤没後の門人たちにとって、故篤胤の顔を拝むことができる手段は、肖像画を見ることのみです。そうした門人たちの心情を思いながら、この篤胤肖像と向き合ってみたいものです。なお、近世・近代に描かれた様々な篤胤肖像の総体とその役割については、今後の重要な課題でもあります。
千葉県文書館嘱託
中川和明