和魂万国才
明治2年8月2日、日本の神々である八意思兼神と久延毘古神を祀り大学大博士平田銕胤が祝詞をあげた学神祭は、漢学者の猛反発を呼び大論争に発展した。集議院では「釈奠廃止、漢籍廃止」が諮問され、当然のことながら二件とも圧倒的多数で否決された。漢学者は孔子が異国の神であるから釈奠を廃止するという理屈に激怒し、国学者は「皇国ノ道」の実現が国学者主導で速やかに行われないことに不満を爆発させた。さらに大学校の京都設置を強硬に主張する国学者も現れ、事態は収拾できないまま、明治3年7月、大学本校は廃止された。この論争により国学者への復古主義的で固定的なイメージが顕現したが、平田鉄胤、延胤(のぶたね)は果たしてどのような学問観であったのか。
鉄胤祝詞では、大学校は「皇神(すめかみ)ノ道」の下に国学・漢学・洋学の三学を統合する学神の創設を目指している。これは明治2年6月に出された皇学首位、漢学・洋学副位の大学の基本方針に基づく。王政復古の原動力であった国学は、皇学として漢学・洋学の上位に位置づけられていた。
平田家三代目延胤は「和魂万国才」と称して、国学・漢学・洋学すべてを「皇国」のために活用しようと説いた。延胤がいう「和魂万国才」とは、日本固有の精神と中国や西洋の学問との共存を意味し、日本が文明開化する上で必須の学問分野を相互補完するものと捉えられている。三学各々名前は違っても皇道の下では同じ学問であり、同等に存在意義が見出せるとした。「和魂万国才」を標榜し、漢学・洋学を否定せず取り込んでゆく姿勢は、幕末に世界へ目を向けた篤胤の学びに遡る。
東京農業大学 教職・学術情報課程 教授
熊澤恵里子